テラスハウスの胸糞悪さとダイバーシティの許容
おはようございます。テラスハウスが嫌いなのに何故か毎回しっかり見てしまいます。なんでだろう。そもそもなんでテラスハウスって嫌いなんだろう。
僕はNetflixではなくて、地上波で見てるんですけど、今週ちょうど「花が快の帽子を投げ飛ばすシーン」だったのですが、
なんだか結局どの回も胸糞悪いというか。変な気持ちで終わります。(テラスハウス知らない人はごめん。でもこれからテラスハウス見てない人でも当てはまるお話をするのでもう少し付き合って)
この変な気持ちを言語化しなきゃいけないなぁと思って、考えたのですが、というか、薄々感づいていた事があって。
テラスハウスって「他人に干渉しまくるコンテンツ」っていうことに気がつきました。
共同生活で、良かれと思って他人に干渉しまくりますよね。多分あれが苦手。あとコメンテーターも視聴者も高みの見物で、いちいちケチつける。あれもしんどい。
それぞれの立場でほとんど自分視点でしか見てなくて、想像力と共感能力の欠如というか。
なんか他人の粗を探し出してやろうっていう感覚も、しんどい。
ダイバーシティ(多様性)の許容が全く無いというか。だいたい否定から入る感じが見ててしんどくなります。
じゃあ見るなっていう話はすごくわかるんですけど、その辺の原因がまだピンと来てないのでその辺の話は一旦置いておいてください。
ちなみに、テラスハウスを否定してるわけではないし、コメンテーターも面白いんですけど、よく考えたら僕は苦手かもっていう話です。
やっぱり、一呼吸いれて、その人の立場になって考えてみるっていうのがかなり大事だと思っていて、花が快にボロクソ言ってる時も内容も全部自分本位で話してるから、あんまりしっくりこなくて。最後帽子投げたシーンってやってることあんま変わらないなぁと思いました。
多様性の許容ってなんか永遠の課題だと思っていて、そういう他人に干渉する人も許容されるべきなのかもしれないけど、少なくとも、僕は苦手なタイプかもしれないです。
で、今週ちょうど「貧困の社会学」という講義を受けていて、そこでの感想を最後に共有したいと思います。
(1)今回の講義で印象に残ったのは「建築現場労働者の休暇の意味」というお話でした。たしかに少し考えればわかりそうな事でも、どこか自分基準で考えてしまい、自分がもし同じ状況だった場合も先生と同じような事を言ってたかもしれないと思い、ドキッとしました。
(建築労働の現場で雨が降って仕事が無くなった人に対して、「休みになってラッキーですね」と発言したが、その人にとっては1日仕事が無いという事が死活問題であるということ)
(2)これと言ってわからなかった内容は無かったのですが、存在被拘束性というように自分の生い立ちや環境に拘束されてしまって、物事に対して多様な見方ができなくなった時に、自分の環境自体を変えるのはなかなか難しいと思うので、例えば想像力を働かせて意識する事によって、社会のダイバーシティをより敏感に感じて受け入れる事が可能なのか、またそれはある程度の訓練のようなものが必要なのか気になりました。
(3)現代社会では、「性別、国籍、文化など様々な多様性を受け入れましょう」のような風潮があるものの、なかなかそういう方向に向かえないのは、やはり存在被拘束性が強い故なのか、そもそもそういった多様性について真剣に考える機会が少ないからなのか、この現代社会の多様性の受容についてどう向き合っていくのかを考えていきたい。
以上です!
結構難しい課題だと思いますが、常にあらゆる視点に立って考えてみるようにしてみます。
また明日!
「昆虫隊長」と名乗る男の自粛期間中の1日の流れ(提供今井智也様)