この息苦しい世の中で生きていくのはもう限界だ
おはようございます。「生きるのがしんどい」って思いながらも懸命に生きてる人がいる事がしんどいです。
ずっとモヤモヤしているものを、いざ言葉に起こそうと思って絞り出した言葉が上記の言葉です。
これから、ちょっと感情的になっちゃうかもしれないけど許してね。
昨日から何もやる気が起きません。何もしたくない。
毎日やっている筋トレも、庭の野菜への水やりも、飼っている生き物のお世話も、標本作りも、動画編集も、コメントの返信も、何もしたくありません。
僕は、みんなで笑い合って、助け合って、抱き合う世界が好きです。そうであってほしい。
でも、それができない世界なら「別にもう何もしたくない」っていう感情になってしまいました。
この息をするだけで疲れる世界が変わらないのなら生きていたって意味がない。「死んだら楽なんだろうな」って一瞬思うようになりました。「自ら死を選ぶ人の気持ち」が少しだけわかったような気がします。
だからといって僕は「死ぬ」という選択肢をとったわけではありません。
こうして、「言葉にする」という選択肢をとりました。でも、待って。これはたまたま僕がブログをやっていたからこの選択肢で留まれたかもしれないけど、他の人はどうだ?
そう思うと、「なんで自殺なんかするんだ」というアプローチにはならない。
自殺は逃げじゃない。むしろ懸命に抗っている。
僕は弱いから、あと数日もすれば今まで通り、この息苦しい世界線の流れに身を任せるんだと思う。
自ら死を選ぶということは、それほど強い事だと思う。
でも、僕はもう限界まで来ている。
人の死でここまで気分が落ちるもんだから、仲の良い友達や大切な人が傷つけられたら多分耐えられない。
僕が求めているものはひとつだけ、
「ただみんなと笑いたい」
でも、どうやら無理らしい。
この世界では、そんなことを許してくれないらしい。
SNSで石を投げる人に対して「投げるな」と言っても無駄だし、
自分の生活に1ミリも関係のない他人の不倫に対して、自分だけの正義を振りかざすし、
相手の立場になった事も、想像した事もないくせに平気で叩く人に対して、「少しは相手の事を考えてからコメントしろ」と言っても無駄だし、
みんなが困っている時に「マスクを大量に買って転売するな」と言っても手前の利益が欲しいが為にするし、
自分が初心者だった頃を記憶から消し去り、なかったことにして、「初心者は運転するな!」と煽り運転をするし、
「煽られるやつも悪い」などと、「殺されるやつが悪い」と同じ意味の超理論すら正当化し、
今日も目に見えない所で、顔の見えない場所で、殺し合いが正当化されている。
タバコのポイ捨てを注意したら何故かキレられ殴られる社会はもう限界でしょ。
でも、僕の周りにはSNSで石を投げる人も、他人の不倫に興味がある人も、マスクを転売する人も、煽り運転をする人も、もちろん殴る人もいない。
じゃあ誰が?
もしかしたら、目の前に座ってる主婦の方かもしれないし、隣のおじさんかもしれない、あるいは、母校の中学生かもしれない。
なんでそんな人たちが?
日々のストレス?自分が我慢してるから?
そんなん知らんくない?
つまりそういった人たちの理論って「石を投げられるやつが悪い」っていう僕には一切理解できない理論で回っているんだと思う。
だから、いくら「投げるな!」って言っても投げちゃう。
言っても無駄。
「ヒューマンエラーはない、あるのはシステムエラーだ」
西野さんがよく仰っていることですが、本当にその通りです。もう、システム(環境)をどうにかするしかない。
世界線を変えなきゃいけない。死ぬことでしか、世界線を変えられない世界のシステムを変えなきゃいけないみたいです。
きっと、一人、また一人と、大切な人が死にます。
でも人ってそんな簡単に死んでいいんだっけ?
「死んで笑われていい奴なんていねえ」ってルフィが言ってたじゃん。
僕はこれから先、大切な人や大好きな人たちが傷つけられる未来にしたくないので、みんなが笑い合える世界線を作ります。
溢れるものは、「哀れのないバッシング」よりも、「温かい言葉」がいいし、
「悲しい涙」より「感謝の涙」の方がいいに決まってる。
具体的に動きます。
時間はかかっちゃうけど、待っててください。
だから死なないでね。
僕も懸命に生きます。
また明日。