写真が司る断片的な「感情」と「記憶」
おはようございます。最近写真と感情の親和性が高いなぁと思っているはっさくです。
写真を撮る時は「何らかの感情」が動いた時にシャッターを切る事が多いと思います。インスタ映えを試みる人たちも「なんかエモいー!」で写真を撮ると思いますが、その感情は結構バカにできないなぁと思っています。
さて、サムネの写真ですが、下アングルから鳥居を写しています。
これは先日、太宰府天満宮に行った時に撮った写真です。
この時の感情を思い出してみたのですが、「暑い」くらいしかパッと思い浮かびません。
ただ、鳥居の持つパワーみたいなものを感じてシャッターを切ったような気がします。
なんか、前、誰かと話していたことなのですが、「離島の雰囲気ってなんか別だよね」「なんだか違う時間軸に来て、違う世界にいる感じ」というような事を誰かが言っていて、
鳥居ってそれと似たようなものを感じる節があって、やっぱりくぐると「あ、ここから神聖な場所だ」というスイッチに切り替わるからかもしれません。
そのパラレルワールドの境目、可視化できる境界が「鳥居」のようなものがもつパワーだと感じました。
写真を撮る意味としては、「記録」という要素も多分に含まれていると思っています。
この「記録」というものも、おそらく「感情」が大きく作用しており、学術研究はともかく、感情が動かないと記録しないはずです。
「記録」は「思い出」、「思い出」はその時の「感情」。
僕はよく虫の写真をたくさん撮ります。カメラフォルダは虫ばかりです。
同じような写真を何枚もとってしまうし、飼育している虫の写真もたくさん撮ってしまいます。
もちろん「記録」としての意味合いはとても強いです。
「こういう場所にこういうやつ(虫)がいた!」
「こういう時期にこういうやつ(虫)とであった」
という記録は今後の役に立ちます。
が、それ以上に感情を占める割合が高いです。僕は子供の頃の記憶はほとんどないし、割とすぐに忘れるタイプの人間です。
家族で行った旅行もどういう所に行って何をしたかは覚えていませんが、そこで出会った虫や生き物の断片的な記憶はびっくりするくらい覚えています。
父が生き物の写真を撮ってくれて、それをプリントアウトしてずっと眺めていたのも覚えています。
つまり写真は「記憶」や「感情」を保存するツールとしてとても優れています。
もちろん動画の方がより具体的ですが、「思い出す」という行為そのものが「感情」を動かす魅力的なものではないかと思っています。
それでは!また明日!
[生き物飼育]クロアゲハの羽化シーンをタイムラプスで撮ってみた!(提供佐々木颯太様)