なんでもかんでも「0」or「100」で捉えない方がいいよ
おはようございます。徹夜をすると朝の太陽の暖かさを感じる事ができるとわかったはっさくです。(2日に1回くらい徹夜してる気がする)
さて、世の中「0」or「100」でしか捉える事ができないと、どんどんしんどくなるよ。というお話をしたいと思います。
話したい内容は何となく思い浮かんでいるのですが、うまく言語化できる自信が無いので、多少伝わりづらい箇所があると思いますが、ご了承ください。
そもそも「0」or「100」というのは、世の中にはあまり無いと思っていて、理由は「人それぞれ正義が違うから」です。
この法治国家において、あるとするならば、「法律」くらいで、法律を犯したら「100」アウトで、基本的に黒か白で区別する事ができます。
あとは、ロジックがしっかりしているものに対しても「0」or「100」が存在する事もあるかもしれませんが、それも多分法律が基準となるロジックくらいだと思います。
「良いか」「悪いか」
「白か」「黒か」
表と裏の二項対立をしっかりと決めなければならない事なんてそうそうないという事です。(カッコつけて難しい言葉使ったけど二項対立っていう言葉の使い方あってる?)
しかし、人間は意外にもハッキリさせたいタチらしく、「0」or「100」ベースで話す人が多く、「40」とか「70」くらいを許せない人もいます。
例えば、ビーガンの話が1番わかりやすいと思うのですが、
「動物を殺すな!」「地球を守れ!」と「100」で主張した時に、ビーガンではない人からは「じゃあお前蚊も殺さないのか?」「今まで一度も生命を奪った事がないんだな?」と、これまた「100」で反論する人が現れます。
お互い言いたい事はすごくわかるし、どちらも極論ですが、極論同士のぶつかり合いって普通は裁判所レベルでしか起こらないはずです。(法治国家だから)
つまり、なんでもかんでも「0」or「100」ベースで話すのではなく、
例えば、「週1意外は動物質のものを食べません」というビーガンの人がいても良いと思っていて、むしろこっちの方が、お互い歩み寄れる余地があって、まず、言い合いになることはないんじゃないかと。
「ビーガンではないけど、地球環境保全について別の角度からアプローチしてみる」という人がいても良いわけで、人の生活において、「0」or「100」なんて本来存在しなくて、お互い完璧でないからこそ歩み寄れる余地があるのではないかと思います。
「0」or「100」議論で、わざわざ論破する必要がないという事ですね。
「動物質のものは食べないけど、日常生活において虫は殺しちゃっている事があります」と、「80」くらいで話すといいと思うよ。
押し付けも「0」or「100」なので、何かしらの逃げ道や濁しポイントを設計した主張もまたいいんじゃないかと思います。
それではまた明日!
追記:伝わっている自信がない
【生き物飼育】ヤスデやゴキブリなど100匹以上の虫を飼育する人のメンテナンスルーティン