多角的な視点と存在被拘束性

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 おはようございます。「書くこと」其れすなわち「思考量」なり。ということがわかったので、課題がやたらはかどっています。

 

 

 さて、今回の記事は「貧困の社会学」という授業の最終課題のコピペになります。それでは、

 

この講義を受けて自分の中の考えに変化があった。水商売で働く女性の事情、鳶職、沖縄の若者など、完全に知らない世界であり、想像もしていなかった。

 

 私はもともと自己責任論側の意見を持っており、「いや、努力すれば良いじゃん」という、いま思うと非常に愚かな考えを持っていた。

 

 その人の事情を知らないくせに、自分の経験や環境だけを物差しにして考えていた。しかし、今回の講義でそういった人たちの実情を少しだけ「知ること」ができ、完全にではないが、存在被拘束性を解くことができた。

 

 つまり存在被拘束性を解くには、まずは「知ること」が大切なのではないかと考える。しかし、人間は知らないことを嫌う傾向にあり、知らないことに対する苦手意識や懐疑的な視線を持ってしまう。

 

 自分の経験や知識範囲で処理できない情報は受け付けないような設定になっているのだろうか。

 

 事実、今回の講義で学んだことは知らなくても生きていける。しかし、知らないと変えていくことができない。自分の考えも、法的な制度も、空気も、知っていれば少しづつ変えることができ、様々なことを多面的に学ぶことができる私たちのような恵まれた環境に身をおいている人は、変えていかなければいけない義務があるように感じた。

 

 これは自分自身も気を付けなければならないことだが、存在被拘束性を解き、様々な人の立場になって考えることは容易ではなく、考えることをやめると、表面的でしか物事を捉えることしかできなくなり、本質に気づかず(解らず)、それっぽいことを言って満足するコメンテーターのポジションに落ち着いてしまう。

 

 今、twitterなんかで行われている議論のほとんどはそういったコメンテーターの石の投げ合いで、そもそも議論になっていない。

 

 以前、「金銭的な余裕がなくて学校に行けない人がいる」というSNS上での議論に、「奨学金があるだろ」「行こうと思えばいくらでもいけるだろ」という地獄的な言い合いを目の当たりにして、どこか危機感を覚えた。

 

 生活援助などの話でわかったように、あるのはあくまでも制度であって、そこに「支援」はないし「心」もない。表面的な制度は知ってても意味がないことを理解した。

 

 「知ることにとって視野が広がった」という言い方をするが、個人的には「視点が増えた」という方が近い気がしている。

 

 「視野が広がる」という言い方だと結局は自分視点の思考になってしまい、結局表面上の情報だけを処理しているように感じる。

 

 「視点」が増えれば、主観はもちろん、第三者からの視点からも考えることができ、物事の捉え方、見方も変わってくる。

 

 視野の広がりよりも、見方の増加の方が物事をより本質的に捉えるのではないかと考えている。実際に当事者と同じ環境に身を置き、参与観察していた先生のお話はまさに当事者の視点だった。

 

 そいった現場の話を聞くことで、私も当事者の視点になって考えることができたのではないかと思っている。

 

 視点を増やせば増やすだけ主観から遠ざかり、まさに見る世界が変わる。何不自由なく、恵まれた環境で暮らしている私たちにとって、「貧困」とは別世界だと認識している節がある。

 

 まずは、当事者の視点を知り、考えることが今、私たちにできることだと考える。私も含めてだが、視点があまりにも少なすぎる。

 

 幼少の頃から「人の立場になって考えろ」という注意を何度も受けてきていたが、なかなか言えて妙だと今になって思う。

 

 ただ、一番危険なのは、ここで「第三者の視点で考えることができる」と私が錯覚してしまうこと。視点を増やすことは簡単ではなく、極端にいうと「同じ経験」をしないと本当の意味での「当事者視点」というのは得難い。

 

 大事なのは「当事者視点」になったつもりではなく、さらにそこから考えること。自分含め、少しでも豊かになれるよう、物事を多角的に捉えられる視点を増やしていこうと思っている。

 

 はい!また明日〜!

 


[生き物飼育]クロアゲハの羽化シーンをタイムラプスで撮ってみた!(提供佐々木颯太様)

 

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